企画部

不合格体験記

不合格体験記
<まえがき>
PCの整理をしていたら発掘したので、上げてみました。
他人の苦労話が苦手な方は、そっと「閉じる」をクリックしてください。
一部、不自然な部分は加筆してあります。現役生を対象とした雑誌に載せていました。
以下、コピペ
いろいろ訳あって2浪してしまった私の当時の精神状態とかその他もろもろの感想、2浪してしまうことの弊害をつらつらと綴っていきます。今現役でこれを目にしている人がいるなら、浪人することとはどういうことなのかを感じてもらえれば幸いです。
それでは、本編を始めます。なお、本文中では私の名前は木塚になっています。


1、現役時代(18歳)
"D判定"、それが最初のT大からの返事だった。
現在ではもう行われていないようだが、数年前まで二次試験で不合格だった人には、点数とは別に大学側からご丁寧にも判定つきで郵送されていた。こんな時にA判定をもらったところで嫌味にしか受け取れない気がするが・・・。そう、現役受験のときに私に下された判定だった。当時、浪人がどういうものかをよくわかってなかった上に、O大は行きたくなかった私は無謀にも後期を出願しなかった。つまり、前期に落ちた段階で自動的に浪人になることが決まってしまった。そのときは浪人さえすれば、成績も絶対上がるに違いないし合格出来るだろうという甘い考えが頭の中にあった。というのも、私は関西の某進学校にいたものの、成績はまるで振るわずに正直なところ、足切りも危ういレベルだった。だから、浪人して1年間勉強する期間を設ければ、まだまだのりしろ部分があると信じていた。それでも、現役時にT大に出願したのは、周りの友人が俗に言う超一流大学に出願している中で、まるで自分もその集団の中で肩を並べて勝負できると錯覚していたからだ。
実際、今振り返ってみるとどう考えても無茶な試みだった。そして、なんとか受験票を手に入れるには至った。二次試験までは、さすがにかなりの勉強をしたように思う。とはいえ、過去問にあたっても、特に一番理解ができていなかった化学はほとんどが出来なかったので、年数はこなしていくものの受かるのはかなり厳しい・・・というか無理だろうなと、うすうすは感じていた。だが、有名校に在学しているという手前、親はかなりの期待を私にこめていたので、私は無理かもしれないなんて気配はおくびにも出すことも出来ずに、朝から自習室に籠もって、もんもんと解けもしない過去問と戦う不毛な日々だった。
月日は思いのほか早く流れ、迎えた受験の前夜。宿の手配は学校側に申請したため、同じホテル内には友人が数名おり、ちなみに元ランドフォールのO木氏もいた。そのせいもあってか、不謹慎だが、妙な修学旅行気分を味わっている自分がいた。特に緊張して眠れないなんてこともなく就寝。そして、初日の数学と国語。どちらも得意教科だった上に手ごたえを感じていたため、これはいけるんじゃないかと淡い期待を抱く。とりあえず初日合計最低目標の100点は超えたような気がした。問題は2日目の不得意科目の理科と英語だ。初日はルンルン気分だったのは覚えているが、2日目のことで覚えているのは、午前中の理科が終わった後の昼休み、友人が楽しく談笑しながら昼食をとってる中での一人、絶望感。その後の英語に関してはどうだったかまるで記憶がない。
おそらく惨敗だったんだろう。こうして私の現役受験は幕を閉じた。
受験が終わって数時間後、母からメールが来た。
「受験長い間おつかれさま。温かいご飯用意しているから、早く帰っておいで」
私はそのメールに返信しなかった。出来るわけがなかった。


2、1浪時代(19歳)
手元には、"3枚のはがき"があった。
予備校のK塾、Yゼミ、S台からのお誘いのはがきである。現役中に受けた各予備校の模試の成績に見合った特別待遇をするという内容だ。例えば、授業料いくらか免除とかT大やK大志望コースに選別試験なしで入れてあげますよ、とかいったものだ。現役時代にK塾の講習を取っていたので、なんとなく同じ所に通うのは嫌だった。とすると、残りは2択・・・YとSだが、当時、関西圏では、Yは落ち目で予備校としての存続すら危ういなんて風の便りに聞いていたが、授業料は安い。一方、Sはしっかりしているイメージはあったが、授業料は高い。
ここで私は、以前読んだ本の一節を思い出した。
「安くて美味い店は確かに存在するが、高くて美味い店には敵わない」
その精神にのっとって、結局Sに行くことを決意。しかし、この選択が誤りだったと気づくのにそう時間はかからなかった。
4月8日、電車内には、着慣れない真新しいスーツを身に着けた入学式に向かう大学1年生と思しき人たちを尻目に、くたくたになったTシャツを着て予備校の教科書を取りに向かう私。でもまだ、このときは一年間耐えさえすれば人生の本道に戻れるはずだと信じて止まなかったので、精神状態はそこまで落ち込んでいなかった。だが、SNSのサイトは見られなくなった。理由は単純である。友達の日記の内容が羨ましすぎるからだ。いや、内容を見なくともタイトルを目にするだけで、どうしようもない嫉妬の念が渦巻いた。「新歓で~」、「○○のサークルが~」・・・正視出来なかった。
5月10日、私の誕生日だ。知っているだろうか、ハリーポッター並みに誕生日が嬉しくない人もいることを。それは、浪人生だ。はっきりと言ってしまえば、無意味に一つ歳を重ねただけの何にも楽しいことはない。友人に、ライバルに、恋人に、一歩おいていかれてしまったのだ。しかも、人生において一番経験を積み、刺激を受けるべき時期を自分で潰してしまっているのだ。これほど迎えたくない誕生日は初めてだった。
そして、5月の五月病に代表されるように、人間の一番恐ろしいものに早くも捕まってしまう。それは「慣れ」である。感覚が麻痺してしまったと言ってもいい。とにかく、この朝起きて予備校に行って授業受けて、適当に息抜きして帰るという日々を"当たり前の状況"、と捉えるようになってしまうとまずい。少なくとも浪人中に持ち続けるべき意識は、「この腐った状況から打破したい。1日も早く抜け出したい」と思うことである。そうでなければ、予備校では新しい友達もできるし、ただの学校の延長、高校4年生になってしまうのである。さらに、私がSを選択して間違いだったと思うのは大手になればなるほど高校時代の友達と遭遇する確率が上がってしまうことである。もちろん、友達と会って喋ることは、浪人特有のストレスや不安、不満から発狂しないための重要な気分転換になるが、それゆえにそのまま一緒に遊びに行ったりして結果的に共倒れになってしまうことが多々あるのだ。正直な話、浪人して希望の大学に行けなかった人の原因の大部分がこの友達と仲良くなりすぎてしまうことにあるのではないかと思う。忘れてはいけないのは、浪人は「学生ではない」ということ。(予備校によっては社会分類上、学生の身分になるところもある。)いうなれば、免罪符持ちのニートであることだ。浪人中に犯罪を犯し、逮捕されて報道されると、尐年A(19)"無職"の表示がなされてしまうのだ。そんな状態では死んでも死にきれない、そんな意識が必要だ。だが、当時
の私はそんなことも知らずに委員長と遊んでいた。
6月:浪人になってから初めて受けた模試の結果が返ってくる。C判定。このときさすがに今の自分の状況がかなりまずいことに気づき、焦った。なぜなら、まだ受験を、それどころか学習範囲を一巡もしていない現役生にすら負けているからだ。ここで一念発起して、勉強するようにはなった。だが、ここでもまた、Sを選択して誤りだと思うことがあった。それは、前期(夏休みより前)の授業は演習がなく、ひたすら講義のみであったことだ。つまり、得意科目に関しては自分でプランを立ててやる必要があった。今、塾講師のアルバイトをしていてもわかることだが、宿題を与えられるという環境は、実はすごく楽なことで、何も考えずにただ与えられたことをこなせばいいのだ。とりあえず、大学への数学はやっていたが果たして身についているかははなはだ疑問だった。
7~8月:予備校では通常授業は高校よりも早く終わり、夏休みに入る。理由は・・・商売だから・・・勘のいい人はわかるだろう。とにかく、夏休みはなんといっても年に2回しかない大学別の実戦模試がある。ここで、当時の私が掲げていた夏休みの目標が残っていたので載せてみる。
・朝8時起き、10時には自習開始 ・1日に1つは英文読む ・物理の難系をもう1周 ・化学の新演習ももう1周 ・数学は予定している問題集2冊を倒す ・8月の実戦模試でB以上 B以下の場合 路線変更も視野に入れる ・センター模試で日本史を8割確保 ・家での勉強はリスニングのみ ・最近、運動不足でお腹がプニプにし始めているので腹筋
こんな具合である。これが多いのか少ないのかはわからないが、上二つと最後以外は達成できたと思う。よく受験生の夏休みは、毎日10時間以上勉強やれとかなんとか言われるが、本当に大事なのは時間数じゃなくて密度だ。どの自習室にも朝9時から夜9時までいる人は必ずいる。しかし、それに刺激を受けることはあっても焦燥感を感じる必要はない。少なくとも私は、逆に自習室では10時間を越えないようにしていた。なぜなら、それを超えると次の日にやる気がなくなるからだ。たとえ、一日に12時間勉強できても、翌日に全くしなかったら意味無いのである。それに、昨日はあんなに頑張ったんだから、今日・・・なんて甘い誘惑があったりする。それでなくても、夏は誘惑が多いのだ。一人暮らしをしている友人は関西に帰省するし、花火大会やらイベントはたくさんあるし・・・。そして、家の中では極力勉強をしない。家は休憩するところ。その代わり、家にいる時間は少なく、なるべく遅く帰る。そういう空間の意味付けを自分の中でしないと、四六時中勉強しなくちゃという意識ではもたない気がする(もっとも、この考えが甘いから2浪する羽目になったんじゃないかと言われると何も言い返せないが)。そして、モチベーションを保つためにしたのは、落書き帳でもなんでもいいから、その日自分が解いた問題の問題番号をメモすることだ。これは、意外と役に立つ。こんなにやってきたんだって目に見える形にするのは自信にも繋がる。その効果があったのか、夏の大学別実戦では人生で初めてのA判定を取ることが出来た。嬉しかった。それはもう、嬉しかった。"努力すれば報われる"なんて日本人が好みそうな迷言をこのときは信じたくなった。だが、現実はそんなに甘くなかった。
9月:夏の模試で結果を残せたことで精神的にはゆとりが生じていた・・・はずだったが、この夏休みが終わってまた授業が始まって間もなく、2年間の浪人生活を通じて一番落ち込んだ時期が訪れた。あのときの精神状態は相当やばかった。朝、予備校へ向かう電車の中で、座りながらサラリーマンに周りを囲まれる中、涙がひとりでに溢れたり、信号で待っている間で、秋の入りの冷たい風に吹かれるだけでなぜか泣きそうになった。授業どころではなかった。誰かにこの壊れそうな胸のうちを聞いて欲しかった。もちろんこんなときに聞いて欲しい相手は、両親でもましてや、先生などではない。言うなれば、自分と全く同じ思考ベクトルを持つ人、もしくは自分自身だった。後にわかったことだが、同じように浪人していた友達に聞いてみても、この夏休み明けが浪人生の鬱期だったようである。原因はよくわからないが、夏休みの疲れと一種のむなしさが爆発したのかもしれない。
その当時のメモが残っているので一部載せてみる。
人生には無限の可能性がある なんてのは嘘。 理系的な択一論ならそりゃ無限に膨らむだろう でも 現実をよく見てみなよ 今までに自分の意思で、周りの環境も境遇も何もかも無視して本当に「自分の意思で」選ぶ機会なんてあった? 選択肢があったところで、それはよく見れば結局 一本道。 だから、人生に無限の可能性なんてのはない。 ならせめて、今の自分を自分ぐらいが信じてあげないと あまりにも自分が不憫でかわいそうじゃないか、 でも 私は「今認識している自分の世界」にしか登場しえない、信じてあげるべき「私」を信じていない。 というか、信じるに値するのかわからない。
(中略)
中学3年のときに某進学校に合格が決まった後、ろくに会話したこともないような人によく言われた。 「木塚ってもともとアタマいいからいいよなぁー」 黙れ 「才能のあるヤツは住む世界が違うし」 黙れ だまれ ダマレ!! 人の努力も苦労も何も知らないで勝手なことばっか言ってんじゃねぇよ! それを達成すんのがいかに大変だったか知らんだろ! それを「才能」の一言で勝手に片づけるなよ! 見ろよ その「もともとアタマいい木塚」の現在の体たらくぶりを。
"某進学校"ってプラカードを喜々として引っ提げて"T大"に入場して行くヤツらの列に紛れこもうとして、見事に門前払いをくらってる浅はかな木塚を。 それを知ってこう思うがいい "所詮アイツもその程度か‟
(中略)
エジソンの有名な言葉で「天才は1%の才能と99%の努力で成り立っている」 ってのがあって、現代では"努力することが本当に大切なことなんだ!"なんて随分と道徳的な意味で使われているけど、エジソンが本当に意図したかったことは "「その1%の才能」を手に入れることが いかに難しく、レアであることか"であったそうな。 突き詰めてしまうと、最終的に努力は才能には勝てない。 なぜ、この事実を私は受け入れない? 背伸びするの止めない?
(中略)
今日はすこぶる暗い気分。
本当に自分がしたいことなんて何もわからない。というか、多分、ない。 ただ現状や周りに歩調を合わせているだけ。 誰か、誰でもいいから、慰めの言葉ですら(いや、だからこそか)上から見下されるみたいで刺さってしまう、ささくれた心を聞いて欲しい
ところどころ臭いな(笑)。とにかくこのときは、今までのうっぷん、羨望、そして、受験が上手くいくのか、もう一年やるかもしれないのかって不安が溢れだしたのだろう。そして、その不安は遠からず当たっていることになるのを、このときは知る由もない。
10~11月:2度目のセンター試験まで90日を切り、さらに目前には夏で結果を残せた大学別の実戦模試が、再び迫っていた。この頃には精神状態も落ち着き、模試への対策を立てながら勉強できるようになっていた。というより、この時期になると模試ラッシュが相次いで、とにかく勉強するしかなくなり、落ち込んでいる場合ではなくなるのである。そして、迎えたT大実戦。私の得意不得意科目を考えるに、初日の数学が出来ないと、おおよそ望みがなくなる。余談だが、理系の場合上位校になればなるほど数学で失敗すると経験則的にかなり厳しいと思う。で、このときは数学で惨敗。手ごたえ的には2完1半3滅。これでは50点もなく、絶望的。また特にこの数学では難易度がどうであれ高得点をとれる人はズカズカとってくるから、このときに既にA判は消え去る。その後も、敗色濃厚の気分で臨んだ2日目の理科はそれを引きずってしまったためかまたも惨敗。結果、この日からT大を受けることに相当の不安を感じ始めるが、どこにすればよいのか具体的に分からず、もんもんするようになった。
12月:先月のもんもんとした気分が目に見える形として返ってきた。キリキリのC判定。予想より英語が耐えていたため、辛うじてCには留まったものの、状況は極めてひっ迫していた。なにより、前期にT大で突っ込むのはただの特攻じゃないのか、またこの一年を繰り返してしまうんじゃないのかと本気で考えるようになっていた。だが、のちに後述するが浪人してしまうと、事態はそう易々と路線変更できるものではないのだ。
1月~受験:どうして年末年始はこうもイベントが多いのだろう。浪人生にとって、年末のクリスマスから正月の三が日にかけて、気分を高揚させてくれるものは何もない。むしろ、車内のイチャつくカポーに殺意がわき、むなしくなるだけだった。そして、成人式。この1浪の時の成人式の日の朝の光景は、今でもよく覚えている。その日、いつものように朝、S台に登校すると、晴れ着に身を包んだ女性3人が入口のエントランスのところで嬉しそうに写真を撮っていたのだ。どう考えても痛々しい光景。だってそれは、2浪している証だし、普通の神経なら浪人中に成人式に行く気にならないだろうと私は思っていたからだ。そして、私は2浪だけは絶対にするまいと、柄にもなく神に祈った。でも、神様はいなかった。
そんなこんなで2回目のセンター試験。試験科目それぞれの細かい感想はもう忘れてしまったが、結果だけ載せると、最後の最後まで模試で結果のでなかった文系の日本史と時間の少なさにテンパってしまった数学ⅡBが足を引っ張って、リスニング抜きで770程度だった記憶。そして、前年が学習指導要領の変更に伴って難化した反動で、この年は易化。ゆえに、この点数でもT大前期はセンターだけでD判定。T大はセンターの圧縮が大きく、二次の試験にさえ持ち込めば大した差はない。センターで高得点を取っておきたいのはもちろん前期を有利にすることにもあるが、後期で勝負できる大学の候補を増やしておきたいからだ。しかし、ここで迷った。
本当に前期あの秋の実戦の結果で突っ込むのか?
合格する見込みはあるのか?
ダメだったら、またこの生活を繰り返す覚悟はあるのか?
様々な可能性、意思、見栄、欲望が交錯した。しかし、一番厄介だったのは"プライド"だった。
「木塚はあの有名な学校出身なんだって」
「え?あの学校出て1浪までしてあんなとこしか行けなかったん?」
「高校はまぐれだったんじゃないの?・・落ちぶれたなー」
そんな声がどこからともなく聞こえた。・・・無理だった。私にはやはり選択肢はなかった。わかるだろうか、これがそれなりに有名な学校を出て、もしくは医学部を目指して多浪している人にもよくある、もうあとに引けなくなってしまう浪人の負のスパイラルなのだ。浪人を重ねれば重ねるほど、世間体が気になるから上位のところを狙うしかなくなり、だが、浪人を続けても続けても成績は思ったほど上がらず、むしろ2浪あたりをピークに成績は下降を始める。周りの友人はどんどん先のステージへと進んでいくのに、自分は、触角を片方だけ千切られた蟻みたいに、ずっと同じところをぐるぐるぐるぐる回っているだけ。やがて、精神は壊れていく。だが、後になってわかることは他人は自分が思っているほど自分に対して、そんな期待も興味もないということだ。だから、さっき聞こえたような気がする声なんてのは、存在しない空想の産物。ある意味、自意識過剰とも言えるかもしれない。でも、そんなことは当の本人にはわからない。そこが問題なのだ。そして、私は無謀にも2回目のT大受験に挑むことになる。
ゴミ収集車に潰されていくゴミの気分を想像したことはあるだろうか。
初日の数学が終わった私の気分はまさにそんな感じだった。メキメキメキと音を立て、外部からの圧力にあらがえずに壊れていく。私の希望が、自由が、努力が、砕かれていく。
前にも述べたが、私にとって数学が失敗することは即不合格につながると言っていいので挽回不能だった。事実そうではないのか。他の科目でどこで数学1題分の点数20点を補えるところがあろうか。とにかく、この瞬間今年も桜は咲かないことがわかった。
その後、やる気もないままに後期の受験対策を講じるもののやはり行きたくないO大の勉強には身が入らなかった。だいたい、行きたくもないと思っているような人が受かるほど受験というのは甘くない。
散った。
後に残ったのは、両手で必死に守りぬいた腐りかけた何の役にも立たない有名校出身というプライドと、浪人のスパイラルに足を踏み入れている事実だけだった。
前期はだめだと感じていたが、後期もだめだとわかったとき、私は泣かなかった。
このとき頭の中にあったのは、またこの一年を繰り返すのか、もううんざりだ、早く解放して欲しいということだけでO大不合格に思ったほどショックは受けていなかった。
それから、私は文字通り3日3晩飲まず食わずの状態に陥った。
のどが渇いたとか、腹が減った、その他の生理的感覚が起こらないのである。
そして、4日目、母がまだ湯気を立てている好物の味噌汁を片手に私に穏やかに言った。
「お食べ。」
私は、泣いていた。


3、2浪時代(20歳)
"実刑2年、執行猶予なし"
これがどれほどの犯罪の場合に科せられるか、ご存じだろうか。今、巷を騒がしている麻薬の再犯を犯したときの平均的な刑罰量である。2年間。精神的な牢獄に入れられたといっても過言じゃない。私は何を犯してしまったのか、未だにわからない。多分、わかる日は来ない気がする。とにかく、このときの私は、猶予のない浪人のスパイラルに入ってしまっていた。
そして、今年も予備校選びから始まる。本当にこのときはうんざりしており、何をやってもどうでもいい気分だった。目に映るものは、色あせて見えた。空は何色なんだろうか。
2浪目になると、予備校側も「こいつは見込みなし!」との判断をするのだろうか、去年のようなお誘いのはがきは1通も来なかった。ついには、予備校ですら私を"不必要な商品にならない不良品"と見なしたのだろうか。一体私はどこなら必要とされるんだろうか。このまま風に流されて、どこかで塵になってしまってももしかしたら誰も気づかないんじゃないんだろうか。
そんなことを薄ぼんやりと考えながら、しかし目の前の雑務を事務的にこなしていた。宅浪は精神的にもモチベーション的にも、もたないとわかっていたから、やはり予備校に行くしかない。なら、どこに行く?残るはYゼミしかないじゃない。どうせ行くなら入塾テストでスカラーシップ取って、せめて無料を勝ち取ってやろうじゃないか!そうやって無駄に自分を奮い立たせていた。これから失う1年間という時間はどうやっても金では買えないというのに・
灰色の春
前に桜が綺麗だと素直に感じていたのはいつなんだろう。今は何も思わない。
結局、Yで全額免除ではないが大幅な免除を勝ち取り、自宅の最寄りの校舎は友人がいると小耳
に挟んだ私はあえて少し遠くの校舎に行くことにし、自分なりにベターな環境を整えていった。とにかく、周りに私のことを知っている人を置きたくなかった。そうすれば、ただの一介の浪人になれるからだ。関西ではYは1クラスが少人数だったため、先生は生徒一人一人の顔を把握しているからサボるとすぐにばれる状態になっているのも良かった。そして、少人数だとすぐに友達が出来た。今でも、その中の一部とは交流がある。もちろん、その中には女の子もいたが校舎内が全くそういう雰囲気ではなかったせいか、そんな関係に発展する人はいなかった(当たり前か)。余談だが、受験期間中に恋人を作ったりすると大概の場合、男は不合格になり女は合格して、男は捨てられるというのが定説らしい。くわばら。くわばら。
YはSと違い、前期からどの教科もバリバリの演習で予習してこないなんてありえないという空気で、これは非常に私にマッチしていた。というか、今さら授業されても・・・という感じはあった。ここが多浪の恐ろしいところだ。受験において勝敗を分けるのは、難問ではなく基礎の標準的な内容を正確に把握しているかにかかっているのはよく知っていると思うが、問題を大量にこなしてしまうとその問題を見るだけで、その問題が確認したい事項の基礎内容が本当に理解していなくても、反射的に小手先のテクニックで解けるようになってしまうのだ。だから、どこに自分の穴が空いているのかが、なまじ問題が解けるだけに不明になってしまう。多浪しても成績に限界があるのは、こういうところからじゃないのかと今は冷静に思う。
春から夏にかけては作業的に予習をし、授業を受け、特にこれといった感慨もなく過ぎていった。ただ、自分がだんだんと無機質になっていく感覚はあった。1浪時は若干情緒不安定で感情が爆発することもあったが、今度は逆に何も湧きあがらなくなった。無味乾燥になってしまった。このころ模試の判定はBあたりをうろうろしていた。
そして、今年も無意味な誕生日は過ぎて行った。ついに花の十代をこんな形で終えてしまった。
あまりに寂しいから、自分に板チョコと鞄を買ってあげた。
過ぎ行く夏
関東の人はわからないかもしれないが、関西の夏はとんでもなく暑い。以前、テレビ中継の街頭アンケートを受けていたアラブ系の方が自国よりも暑いと辟易していたくらいだ。特にこの年の夏は非常に暑かった記憶がある。
夏には、もはや通算で5度目になる大学別の実戦模試があるので、それに向けての勉強がメインだった。このときはあまりメモが残っていないので何をしたのか定かではないが、前期のテキストの全問題の解き直しとかやっていたように覚えている。もう2浪目ともなると、一般的に良いとされる問題集はあらかた解いてしまい、実際問題やるものがなくなるのだ。そして、前述にもあったがYは人が尐ないので自習室に行っても、隣の人と角を突き合わせてムチムチの状態にならないのは非常に快適で、1浪の時よりも勉強時間は増え、効率も上がっていた。
で、夏の実戦模試は得意科目の数学が撃滅したものの、理科が安定して高得点を確保できるようになってきていたので、去年には劣るがB判定だった。しかし、ここで嬉しかったのは、数学というある意味ギャンブルに似た科目の力を借りずとも、他教科で安定した結果を残せるようになってきたことだった。この調子ならもしかして・・・という期待を抱いていたが、このときはあんなことになるとは予想だにしていなかった。
そして、今年も花火を見に行くことは出来なかった。
あまりに寂しいから、一人でマッチに火を灯して蟻を焼いて遊んだ。
燃える秋
2浪目の9月は1浪時と違い、精神的に落ち込むことはなかった。だが、相変わらず空の色はよく分からなかった。後期の授業が始まり、内容も前期よりへビィなものになってきた。もう、予習と復習をするだけでいっぱいで、他に自分なりの勉強をする余裕はなくなった。前にも述べたが実はこういう状況は楽なのである。ただこなせばいいのだから。
そして、この年は友人に勧められて、気象大学校というところを受験することに決めていた。軽く説明しておくと、大学校とあるように普通の大学ではなく、国が人材を養成するために作る学校、つまり、受かったあかつきには学生としてではなく、職員として扱われ、それに伴って在学中に勉強をしながら給料が支払われる。他には、防衛大学校や防衛医科大学校などがある。もちろん、卒業後には制約が課せられるが、気象大学校に入りさえすれば卒業後、気象庁にそのまま入庁し将来は絵にかいたような安泰な生活が送れることは間違いない。もちろん、これだけの好条件が整っているからには、難易度はかなり高い。偏差値だけなら、T大とそう違いはない。受験資格は年齢的に2浪目までが限界で、これが受けた最大の理由だが最悪の時の滑り止めになればいいと思ったのと、受験料がかからないのと、受験時期が11月にあるからと、受験科目が自分に有利な数学と物理と英語だったからだ。おおよそ、気象には興味はなかった。むしろ、天気図は中学校の理科ですら嫌いだった。でも、全つっぱして3浪するのとつまらないかもしれないが、安牌をツモるのとではまるで意味が違う。とにかく、その受験が11月で、去年失敗した秋の大学別実戦模試も11月だったから、この年の山場は11月だ。それからは、それこそ腐ったように勉強した。どちらのテストもただの校内テストのようなどうでもいい代物じゃない。それこそ、人生の岐路だ。
まず、11月1日に気象大学校の受験があった。
しかし、私は気象大学校を受験することを、親は言わなかった。というか、出来なかった。理由は単純。難易度の割に知名度が低すぎるし、特殊な学校だからだ。だから、私は受験当日の朝も自習室に行くと言いながら出かけた。試験会場へ向かう途中のコンビニで、昼飯のおにぎりを2つ買った。言えない自分が情けないし、寂しかった。
一次と二次の試験があるが、一次にさえ通ってしまえば二次は面接と小論文だけなので(面接といっても落とすことを目的ではなく、人として常識的に振る舞えるかどうかを見るだけなので事実上落ちることはまずない。)、全力を出すべきはこの一次の筆記試験だけだった。筆記試験は大きく分けて、教養、センターレベル、国公立二次試験レベルの3本だてで、それぞれの得点比率はみな平等でどれも甘く見ることはできない。教養は、一般常識から、空間認識、推理問題など多岐から渡っておりどれも難しくはないのだが、教養とうたってるだけあって国語・・・というか日本語に関する問題は非常に微妙な問題が多く、日頃いかに多くの日本語に接しているかを問われる。センターレベルは、センターを尐しレベルを上げてより理論に重点を置いた内容で、暗記が極めて嫌いな私は、むしろ本番のセンターよりもこちらの方が解きやすかった。そして、最後のガチな筆記試験。これは前述もしたが、数学と物理と英語で、どれもはっきりいって相当難しい。特に英語は難しさに定評のある関西のK大よりも難しく、もともと英語が不得意な私は点数確保できるわけがなかった。
結局、受けた手ごたえとしては、数学が1完1半1滅で、物理が9割、英語が3割弱という感じだっ
た。物理が、電磁気のかなり根本の部分を問いてきたので、ほぼ満点を確保できた。しかし、これは簡単という意味ではなく、定義や意味を正しく把握していないとおそらく(1)から解けないようなつくりになっていた。この時期はまだ、公式を振り回しがちな現役生などは厳しかったと思う。とにかく、総合点では受かるだろうと確信していた。しかし、ここに一つ問題点があった。それは、いくら総合点がよかったとしても、各科目ごとに足切りラインが設けられており(何点かは不明)、それに一つでも引っかかると不合格になってしまうのだ。英語だ。これさえ通ってくれることを祈った。祈るしかなかった。
次に迎えるは秋の大学別模試。
初日の数学は可もなく不可もなくといった手ごたえで、そのまま国語、英語ともに順調に進み、理科は今まで受けた模試の中で最高の出来と言っていいぐらいの感触だった。総合的にみて、これはもしかしたら初めて大学別模試で成績優秀者に名を連ねることができたんじゃないかっていう感じで返却を首を長くして待っていた。こんな風に模試の結果を楽しみにするなんてのは、人生で初めてのことだった。
ともあれ、秋の最大の山場であるこの2つの試験は、御の字でしめることができた。そんな気が、そのときはしていた。
越冬、ようやくの春
冬の北海道はとんでもなく寒いってイメージが強いけど、家の中は暖かくなるような構造になっているから実は暖かい。だけど、関西はそうじゃない。しかも、関西は別に夏が暑いからといって冬もそんなに気温が高いわけじゃない。家の構造的に何も対策されていないから夏は暑いし、冬は寒い。だから、実は一番過酷な環境で生活しているのは関西人なのよ。・・・・・・・北海道出身の母の言である。
秋に受けた2つの大事な試験のうち、まず結果がわかったのは実戦模試の方だった。
C判定。
疲れた。もう、くたくたに疲れた。このときの喪失感には想像を絶するものがあった。わかるだろうか、浪人のような勉強することしかでしか自分の存在を表現出来ないものにとって、模試の結果というものは、その人自身の価値を社会的に視覚化したものだといっても過言ではない。つまり、自分自身そのものだ。だから、結果を見るときは、いつもまさに身を切られるような思いだ。本当に疲れ果てた。精神的にここまできたのは初めてだった。行くところまでいってしまったのかもしれない。
この一年間の努力は?
この一年間の意味は?
こんなに苦労した結果は?
何もかもがもうどうでもよくなった。名前を載せるどころか、去年に比べて判定だけ見るとなんら進歩していないのだ。なにがいけなかったのかとか、そんなことに思いを巡らす余裕すらなかった。私の中に生まれたのは、ある種の諦めともとれる達観だった。
人にはそれぞれ全てのものに限界がある。
これは浪人を通して、私が得た事実だと今も確信している。このとき、私の中でT大受験は終わりを告げた。さようならT大。そんなにあっさり諦められるものなのか、と思った人もいるかもしれない。確かに、模試は所詮、模試で本番じゃないという考えを持っている人も多くいるだろう。だが、今はっきり言えるのは、その考え方が通用するのは現役生だけである。浪人はこの考え方をしては絶対にいけない。模試はA判定をとっていても落ちる人もいるのにどうして伸びる見込みの薄い浪人が受かることがあろうか、現実をもっと見た方がいい。
ここからがこのコラムの中で私が一番言いたいことなのだが、"浪人すれば必ず成績があがる"、この認識は100%間違っている。大多数の人が、そんなことないだろうと思っているに違いないが、浪人して身に着くのは"知識"や"技術"であり、残念なことに"能力"ではないのだ。だから、悲しいかな、浪人して成績が上がったとしても、それは今まで他の受験生に比べて足りなかった知識を自分が吸収しただけであって、根本的なスペックはなんら成長していないのだ。ゆえに、人には限界がある。おそらく、あらゆる分野に関して、このことが言えるんじゃないかと思う。その分野を突き詰めて磨いて上に行けばいくほど、最後にものを言うのは知識ででも技術でもない、根源的な能力なんじゃないかと。まだ社会に出ていないから、こんな考えは、まだ青いのかもしれない。でも、私はこの受験という戦場には、小学校から随分長い間身を投じてきた。だから、私のこの結論に関しては自信がある。そして、この事実に気付くのに私は2年間もかかった。いや、もしかしたら既に気づいていたのかもしれないが、それを受け入れるのが恐かっただけかもしれない。だが、今回の件で私は嫌でもその現実を受け入れるしかなかった。とにかく、この一件で私の中でT大に対する淡い希望はなくなった。
次に結果がわかったのは気象大学校の方だ。
合格。
飛び上がった。嬉しくて、嬉しくて、飛び跳ねた。このときの嬉しさには計り知れないものがあった。気づいているだろうか、実はこれが長きに渡る私の大学受験の中で勝ち取った初めての合格だった。初めて、私を欲しいと言ってくれるところが現れたのだ。必要とされることはこんなにも嬉しいのだ。嬉しくて泣いたのは、人生で初めてだった。さすがに合格したことは親に伝えたが、反応はやはりいまひとつだった。やるせなさはあったが、そんなことはどうでもよかった。それ以上にこれで浪人のスパイラルから抜け出せるのだから。親がなんと言おうと、私は浪人を止める気でいた。
あとは、一週間後の二次試験を通過するだけだった。
面接は自分でも驚くほど緊張しなかったが、小論文で「日本は君主専制主義にしてはいかがか」、という内容をその時読んでいた本に感化されて、書いてしまったのは、今思うとすごい肝っ玉だった。なんせ、提出する相手は国なのだ。そんな危険思想を持った人を採用したくはなかろう。結論から言うと、二次試験も無事に通過し、仮採用の通知が来た。ここで仮採用と書いたのは、実はこの二次試験の結果発表は国立の前期よりも早く、従って気象大学校に合格していても希望の国立に通った場合、そちらに行く人もいるから、気象大学校としては二次試験の合格者の人数は本来の採用枠よりも多めに出すのだ。で、私が仮採用だったのは合格者の中で募集人数(17人程度)枠内の順位ではないが、いわば補欠合格だったからだ。ちなみに私は23位だった。だから、上から6人抜ければ私は晴れて採用となる。例年30位くらいまでは結局採用になるとのことだったので、私の受験はどんな形であれ終わることが決まった。
それから私は第一志望をどこにするのか迷った。正直な話、T大以外についてはあまり調べたこと
がなかった。だが、未だに頑なに自己主張をし続ける腐ったプライドが満足するような学校はどこだ?K大か東工大。この二つしかないだろう。O大?中学の同期が現役で行っているなんて噂を聞いているから無理だったし、私もあまり行きたくなかった。
K大は、随分と英語の雰囲気が他の学校のとは違い、対策にかなりの時間がかかる。さらに、親と話をしてみたところ、実家から通わされそうな気配がある。それに比べて、東工大は英語の配点が低い上に、対策が必要そうなのは化学だけだった。もちろん、自宅から通うなんてことはない。東工大にすることに決めた。もうこの辺は現実的な側面から外堀を埋めていった。
・・・それでもやはり、私の中にはT大を受けたいという願望があった。なんだかんだで未練たらしいかもしれない。そこで私は自分の中でラインを設けた。センターで、780点を越えたらT大、以下なら安全な東工大に前期出願するというものだ。
そして、3回目のセンター。制服を着た、友達と答え合わせをしている若い不安に満ちた現役生とは対照的に、もはや貫禄を漂わせているといっても過言ではない私。もうあまり記憶がないが、化学の原子半径を聞く問題はさすがにありえないと思ったことだけは覚えている。結果、英語の大幅な出題傾向の変更に四苦八苦した私は780点に届くことなく、東工大に出願することになった。
しかし、それと同時に実は安堵している自分もいることに私は気付いていた。
そうと決まってしまえば、あとは楽だった。ひたすら化学を解いた。解いて解いて解きまくった。問題の形式に慣れるまでは、散々たる有様だったが、2000年以降になってくると徐々に点数は上がってきて、あとは運を天に任せるのみだった。後期は建前上O大に出願したものの、もし東工大がだめだった場合は気象大学校に行くことに自分の中で誓っていた。私はとにかく実家から出たかった。
去年は痛々しいと思っていたのに、この日が来てしまった。成人式だ。別にことさら行きたいわけでもなんでもないが、「参加する」選択肢が与えられなかったのは嫌だった。地元の中学では、なまじ、頭のいいヤツ、の認識で通っていたため、合わす顔がなかった。いや、合わす顔が無かったでは表現が間違っているかもしれない。要するに哀れみ、卑下、そういった上から目線で見られるのが、私には耐えられなかった。でも、前述もしたが、他人は自分に対して意外と無関心なのである。だから、おそらくそんな風に見る人はいなかったに違いない。自分が勝手に作り出したイメージに自分で拒絶したのである。少なくとも、当時の私には無理だった。
受験に話を戻すが、最後まで出願するところを迷っていたので、いざ東工大と決まった時にはすでに周辺のホテルは満室で仕方なく目黒のビジネスホテルを確保した。今でも覚えている、あのホテルの朝飯がとんでもなく不味かったことを。そして、緊張で夜が眠れないなんてのは、これまた人生で初めてだった。なんせ初日の数学がT大以上にギャンブル要素の高い250点もあるのだ。
そんなこんなで、迎えた初日。
朝、ホテルで実家から時計を持ってくるのを忘れていることに気付いた。そりゃもう焦った。そこで私はためらうことなく、ホテルの備品である目覚まし時計を、無断で拝借して事なきをえた。だが、使い方やどう設定されているか分からないから試験中鳴り始めたらどうしようとか、そんな雑念に支配されていた。そういう方が、かえって緊張しないのかもしれない。そして、最初の数学。無我夢中で解いて、なんと35分で2完までいった。のちに分かったことだが、この年の数学は簡単だったらしい。私も解きながら今年の数学は易化したのかと思いつつ、だったらなおさら点数を稼いでおこうとひたすらに書きなぐった。結局、3完1半にまでこぎつけ、このときに勝利を予感。午後の英語も手ごたえはあり、思わず、やったか・・・・?と言いたくなった。これものちに分かったことだが英語は
かなり難化しており、やはり、やってはいなかったようである。とにかく、この数学の出来で勝利を予感していた私はすっかり東京人になってしまっていた友人と楽しく晩飯をとり、ホテルに帰還。
2日目は理科だけなので、あとはもうこの2年間の集大成をぶつけるだけだった。
そのかいがあったのか物理ではほぼ満点、化学では8割程度の手ごたえを感じ、勝利の予感は確信へと変わった。
合格。
正直な話、気象大学校ほどの体の芯から震えるような感動は湧きあがらなかった。確信はしていたし、まあ、言ってしまえば安牌に逃げたのだから当り前だと思ったからかもしれない。ともあれ、これで私の3年間に渡る受験生生活は終焉を迎えた。
長かった。果てしなく長かった。先の見えない暗闇に突き進めるのは、その先に希望があるからだ。だが、浪人を重ねるにつれ、だんだんと装備品は減っていき、仲間も減り、足は疲労で悲鳴を上げ、一人真っ暗なトンネルを懐中電灯もなしで進むことになっていく。
最後に、私の浪人した経験から言って、今見ている現役生に言いたいのは、浪人だけは絶対にするな、ということだ。浪人をした人の中には浪人してよかった、充実していた、と言う人もいるだろう。では、私とその人の境目はどこにあるのだろうか?答えは単純だ。第一志望に通ったかどうか、それだけのことだ。そして、知っておいて欲しい。浪人した場合、リベンジに成功するのは全体の半分にも満たないという事実を。みな、何かしらの妥協をしていく人の方が多い。さらに、よくよく考えてみて欲しい。君たちが受けるようなところは、競争倍率が2倍を超えている。これは一体どういうことを意味しているのか。それは、負ける人の方が勝つ人の方よりも多いということなのだ。受験の世界においては勝者の数だけ敗者がいるわけじゃない。その当たり前の事実を認識しといて欲しい。
私がこの2年間の浪人生活で得たものは、2つ。
1、人にはそれぞれ限界があること
2、取るに足らないものに縛られてないで早く次の社会的ステップに進むべきだということ
この考えに辿り着けたのは、私の今後の糧になると思っている。
今、私は果てしなく幸せだ。
浪人生活が長かったからかもしれない。全てのものが新しいもので満ち溢れている。
そして、何もかもが自由だ。
大岡山キャンパスから見える空の色は青い。今なら、そう分かる。

 

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